内田 樹 ブログ。 落ちこぼれと内田樹

加藤典洋さんを悼む

大人が偉い、子供が未発達という事でもありません。 その若者はその時「首相のために死ぬ気にはなれないけれど、陛下のためなら死ねる」と思ったそうです。 そのことが大事ではないだろうか。 感染症は全住民が等しく良質な医療を受けない限り対処できない疾病です。 むしろ、天皇が「立派」であればあるほど、現実政治はその逆を行くことが容易になる。 前川 自民党にもまともな人はまだ何人か残っていますから。 私が子どもだった頃も、教育制度もまた「以前に支配的だった産業形態」をモデルに制度設計されていた。

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教育についての「いつもと同じ話」

しかし、たとえそうなったとしても、つねに一階の視点を失わないこと。 成功した以上、反省すべき点も、改善すべき点もない。 もちろん、子どもたちも学校教育がそれなりに「価値あるもの」であることは分かっている。 トイレでタバコを吸っている子どもを見つけて、「こら」と叱ると、タバコを踏み消して、「吸ってねえよ」と言うようになった(笑)。 トピックは違っても、切り口はいつもと同じ、というものを読者は求めていると思います。 太陽の光も、雨量も、イナゴの飛来も、人力ではコントロールできない。 この点、自分の名のもとに始めた戦争で「臣民」を三百万人も殺した先代と違って、脛に傷がなく、しかもリベラルで開明的と見られている現天皇がいる今は、先代の時代以上に倫理もへったくれもない政治屋連中がはびこる条件が整っていると言えるだろう。

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教育についての「いつもと同じ話」

先生のビジョンをお聞かせください。 学者なんだから自分の研究の成果がノーベル賞をとるとか、そういうことをめざしてがんばるのはよくわかるけど、学長なんてめざしてもしょうがないと。 その「できる限りのこと」がどれほどのものであり得るか、加藤さんは身を以てそれを示した。 要するに、氏はこの問いには答えられないのだ。 それどころか一階の床が抜け、地下に落下することすらあるかもしれない。

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教育についての「いつもと同じ話」

何をどこまで教えたらいいのか、何をどこまで学んだらいいのか、誰もそれを確信を込めて言うことができない。 けれども、何が悲しくて、自分たちほど努力もせず、才能もなかった人間の子どもたちを教育し、われわれの子どもの「競争相手」にすることにわれわれの血税を投じなければならないのか、と。 そこがわれわれの生き死にする現場だからである。 授業中に「私語をやめろ」と指摘すると「してねえよ」と言う。 ふつうの疾病でしたら、「金がないで死ぬのは自己責任だ」で済まされるかもしれませんが、感染症ではそうはゆかない。 もし、古代ギリシャで「金のある人間だけが医療を受ける。

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パンデミックをめぐるインタビュー

そうではなくて、氏は、所詮天皇制は政治的フィクションであることを認めた上で、戦後日本の象徴天皇制は「統治システム」として非常によく機能しており、これを現代日本社会を「より暮らしやすいものにしていく」ためのリソースとして活用していくべきだと提言しているのだ。 「恐れ多くも畏きあたりにおかれては」という文句を恫喝の道具として使って、反対者を黙らせようとしている。 しかし、このやり方では感染症には対応できないことがアメリカでの大規模な感染拡大と10万人に及ぶ死者数が示した。 ふだんの人間がふだんにかんじる場所だからといって、そこに居続けることがそんなに簡単でないのは、ことばをもつことが、ふつうは、二階に上ることであり、でなければ、地下室に下ることだからである。 大学人としてだったら、文科省から何か言われたら、「理不尽だな」と思っても、自分がごねると大学に迷惑がかかるからもしれないと思うと引っ込んでしまう。 今の学校で子どもたちの自己イメージは「種子」ではなくて、「消費者」である。 日本学術会議の新会員を菅新政権が任命拒否した問題は、日本社会に波紋を広げています。

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大人と子どもの違いを解説する内田樹さんの理屈が会心の一撃すぎる

そのために知的なトレーニングをしてきた人たちが、今どんな顔をして仕事をしているんでしょうね。 でも、四月の末には加藤さんから『九条入門』という新刊が届いた。 法案を作るときなんかね、内閣法制局は厄介だったですよ。 すなわち 「祭祀にかかわる天皇」と「軍事にかかわる世俗権力者」という「二つの焦点」をもった楕円形の統治システムが望ましいとして、天皇制を肯定・評価した点にあると思うのですが。 逆に、どれほど非合理的、空想的な理念でも、人間がそこに生気を吹き込めば働く。

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内田樹氏が「天皇主義者」となった理由を聞いて、天皇制を許してはならないという確信がさらに強くなった。

『敗戦後論』は加藤さん自身によれば「悪評が大部分」の苛烈な批判にさらされたテクストだったので、僕はその時点では例外的少数に属していた。 ひとはいまそれですむ世界には、生きていない。 全国民が同じ政治的意識を持ち、同じ統治形態を支持するようなことはもとより期待できないし、期待すべきでもない。 加藤さんはこう書いている。 この一階だけがすばらしいといっているのではない。 そうしないといろいろ不便だから、「現実的」であることは必要である。 それは多分、天皇制を「統治システム」として評価するという態度に現れているように、氏が結局のところ、この国を統治する側の立ち位置からものを見ているからだろう。

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